2011年8月30日火曜日

ワイヤレスマウスの電池交換

仕事で常用しているロジクールのワイヤレスマウスM505の動きがついに怪しくなってきたので電池を交換した。電源をONしてもカーソルが動かないか、数秒~数十秒くらい経つと止まってしまう。
それもそのはず。電池切れの警告が出始めてからもう3ヶ月以上も使い続けているのだから、本当に限界が来たのだろう。

で、用意していた電池に交換。無事に復活。あたりまえだけど。

しかし、本当によく電池がもつなぁ。確かこのM505を購入したのは去年の3月、4月頃だったはず。ということは1年と5ヶ月くらい経ったのか。それから一度も電池交換していないのだから、本当にカタログスペック以上にもったな。しかも交換した古い電池を見てみると、推奨使用期限が2005年7月となっている。たぶん、自宅から持ってきたかなり古い電池だろう。もしかしたら、何かで使っていたお古かも・・・。

1日8時間、年間約250日、毎日仕事で使ってこれだけもつのだから、電池交換の手間やのランニングコストなんて十分無視できるレベルだな。

2011年8月27日土曜日

newlibの構築(自分用メモ)

Code Sourcery G++ Lite(ARM)を使って、newlibをビルドする方法について残しておく。
なお、build環境はcygwin。

Code Sourcery G++ Lite 2011.03-41
newlib-1.19.0
を使用。

まず、configure-inスクリプトにパッチを当てる。パッチを当てないと、makeのときに「コンパイラはそのopコードを解釈できない」といったエラー(うろ覚え)が出てしまう。確か、arm固有のcrt0.oあたりをビルドするときに、アセンブラでかかれたコードの一部をアセンブルできないというものだったはず。これはarmv6-mディレクトリ内のビルドのときだったので、今回はターゲットがcortex-m3限定(thumb/thumb2限定)なのでarm命令用のライブラリは最初からビルドしないようにしよう、というのがパッチの目的。
(ところで、Code sourceryのLite版はthumb/thumb2命令しか吐けない仕様だったかなぁ?)

解凍したnewlibのルートディレクトリにあるconfigure-ml.inスクリプトの210~220行目あたりを以下のように編集。

209| multidirs=
210| for i in `${CC-gcc} --print-multi-lib 2>/dev/null`; do
211|   dir=`echo $i  | sed -e 's/;.*$//'`
212|   if  [ "${dir}" = "." ]; then
213|     true
+++|   else if [ "${dir}" = "armv6-m" ]; then
+++|     true
214|   else
215|     if [ -z "${multidirs]" ]; then
216|       multidirs="${dir}"
217|     else
218|       multidirs="${multidirs} ${dir}"
219|     fi
220|  fi
+++|  fi
221| done

これでarmv6-mなディレクトリとライブラリは無視されるようになる。

いつものように適当なディレクトリを作って、
configure --target=arm-none-eabi --prefix=/usr/local/arm-tools --enable-multilib --enable-interworks
としてコンフィグし、make & make installでOK。

glibc vs newlib on armv7-m

一般的な話として、「glibcはサイズが大きい」「newlibは組み込み用にコンパクトに設計してる」と理解していました。これで間違っていないですよね?

今やってるプロジェクトで、どうもROMサイズが足りなくなる予感がしているので、実行オブジェクトのサイズを小さくする方法を模索中。ターゲットはいつもの(Stellaris/CORTEX-M3)です。
現在使っているコンパイラ&ライブラリはCoresourcery G++ Lite(ARM)なので、これに添付されてくるライブラリはglibcらしいということで、これをnewlibに変更してみてはどうかと。

とりあえずnewlibの最新版newlib-1.19.0をダウンロード。configure+makeだけではビルドできなかったので、ゴニョゴニョして(詳細は別途)とりあえずthumb2対応のnewlib版libc.aを得た。そして、今のプロジェクトでライブラリだけ差し替えてビルド後、arm-none-eabi-sizeでできあがった実行ファイルのサイズを調べてみると・・・

(glibc版ライブラリ)
    text     data       bss       dec      hex filename
247192    5516   79544  332252   511dc ***.elf

(newlib版ライブラリ)

    text     data       bss       dec      hex filename
249496    5516   79544  334556   51adc ***.elf

「なんや!glibcに負けとるやないか!」

というわけでnewlib案はボツに。
結局、実行コードのサイズを下げるという目的は果たせなかった・・・。

Letsnote S9のCPU温度

初代Letsnote S9(Core i5 520M)でちょっとした連続テストを行っているのだけれど、キーボード左からの熱がすごいのでちょっとCPU温度を測ってみました。

CPUの総合負荷率60~70%あたりで連続的に動かしていると、CPU温度は91℃~94℃あたりをウロウロしており、瞬時値ではMAX97℃という数値も!半導体はジャンクション温度(Tj)を超えなければ大丈夫だとはいうけれど、以前作った基板でかなりアッチッチになる三端子レギュレータのまわりは基板の色が変色していたことがあった。このLetsnoteは大丈夫かな~。

買った当時は冬(2月)だったこともあってそんなに熱い!という感じではなかったけれど、やはり夏場は厳しい・・・というところか。実際Core Tempで見ていると、CPUクロックは2.1GHz~2.4GHzあたりを遷移しており、TurboBoostはおろか、定格クロックにも足りていない。おそらく温度90℃あたりを限界値としてクロックの引き下げを行う設計なんだろうな。

と、廃熱はかなり熱いんだけれど、パナの設計でそのあたりの温度を上限に定めているのなら、壊れることはないだろうと信じて、いまだ連続テスト中・・・。

2011年8月17日水曜日

爪でバッテン

蚊に刺されたら、その場所をすぐに爪でバッテンをつけるように押さえつけると痒みが無くなる(引く)ということで実際にやってる人がいるらしい。そう言われてみれば、小中学生の頃だったか、私の周りにもそんなことをしてる人が居たような気が・・・。ネット情報によると、関西でそう信じている人が多いらしいが本当のところどうだろうか。

さて、蚊に刺されたときの痒みは蚊が体内に注入する物質(血液が凝固するのを防ぐためらしい)がアレルギー反応を起こすためだと分かっているから、爪でバッテンしただけで痒みが収まるというのは普通に分別のある大人なら迷信(or都市伝説?)だと分かりそうなものだ。せいぜい、爪で刺激する痛みで痒みがごまかされる程度だと分からないものかな。しかし、大の大人でもそんなことをまじめに信じている人がいるのをこの前のTV番組で知って、ちょっと怖くなった。「本当にこの国は大丈夫か?」と・・・。まぁ、霊の存在や、前世占いなんてのを本気にしてる人もいるくらいだから、そのくらいの迷信、カワイイものだと受け流せばよいのだけど、この考えが暴走するとちょっとコワイかも知れない、と思った。

ある子育て情報番組での話。視聴者から選ばれた夫婦+子供が子育てに関する質問をするコーナーがあるのだけれど、その中である親が「子供(赤ちゃん)が蚊に刺されたら、そこを爪でバッテンしてあげたいのですが、問題ありますか?」と大まじめな顔で質問していたのだ。いや、まあ物言わぬ子供のために必死なのは理解できるけれど、そんな根拠のない行為を親が信じているという事実、そしてそれを全国放送で大まじめに質問している事実に驚くとともに、それを親が信じているからといって物言わぬ子供に押しつけるのはどうかと思った。物言わぬ子供だからこそ、正しい知識で正しい対処を!が必要なのでは?と。というのも、少し前にこんなブログを読んだからだ。

ここに書いてあることはちょっと笑えない。「腐った米のとぎ汁から作る乳酸菌を子供に噴霧すると咳や痰といっしょに放射性物質が放出される」と聞いたのを信じて実行している親がいるというのだから、いやはや情報とは恐ろしいものだ。そして、咳や痰が出ると「効いた、効いた」といって喜んでいるのだから更に恐ろしい。「乳酸菌」などといっているのはとぎ汁が腐った単なるカビや最近で、それを吸わされたことに対する防衛反応に過ぎないのに・・・。

このブログの話を聞いていると、先の「爪でバッテン」夫婦もだんだんエスカレートしていって、事実無根の怪しい情報でも「子供のため」と言われれば何でも信じてしまうのではないかと危惧してならない。「爪でバッテン」くらいなら別に問題にならないけれど、一度、上のブログを読んだ方がよいのでは?と思った。

2011年8月16日火曜日

左右盲・・・

という言葉があるらしい。

どうやら「色盲」から派生した造語のようで、ATOKでは「さゆうもう」から1単語では変換されない。
「左右」の区別が分からないというのではなく、「みぎ」「ひだり」という言葉と実際の左右の対応がとっさに分からない・分かりにくいことを指すようだけれど、google先生で調べてみるとそういう経験を持つ人はかなりの数いるようだ。

そういう自分も30歳過ぎくらいまではそうだったような気がする。視力検査なんかでとっさに「右」と答えておきながら、実際には左のことで「左」と言い直したり、運転していて「次、右折して」といわれると、一瞬考えてからでないと曲がる方向を判断できなかったり。一瞬考えれば正しく判断できることだし、迷うのは「みぎ」「ひだり」という言葉と実際の方向との対応なので、言葉を介さなければ実生活においてたとえ一瞬でも迷うということはなく、そのことで悩んだことはなかったけれど、人によっては「自分はどこか頭がおかしいのではないか?」と悩む人もいるんだなぁ。

私の場合は、左利きが基本の左右利き(矯正経験あり)なので、そのあたりが原因の一つかな?と漠然と考えていたけれど、よくよく考えたらどうして上下は間違わないのに左右は間違えかけるのだろう?というのは不思議な気がする。人間の脳はいったい何をどう処理しているのだろうか。

その辺の仕組みが解明されたらおもしろいと思うけれど、もしかしたらこの左右盲も「高次脳機能障害」の端くれなのかも知れないと思うとちょっとコワイ。以前TVで見た例に「飛んでくるボールは上手に手で受けられるのに、目の前にボールを静止して差し出されるとどうしてもボールを取れない・ボールの場所を把握できない」というような脳障害もあるらしい。本当に、脳というのはいったいどうなっているのだろう?そして、私の脳は・・・。

2011年8月4日木曜日

2011/8/3放送の報道ステーション内での大宅映子氏の発言

には、ちょっとイラッとしたなぁ。何というか、高圧的に感じたのは私個人の感じ方でもあり、また大宅氏の立場上語気を荒げた発言方法も一つの方法として受け入れられないわけではないけれど、なんといっても理論の展開が全然論理的じゃなく、客観性に欠ける。ただ、自分の信じている意見を「こうでしょう」「こうじゃないよね」と押しつけているだけの発言に思える。

番組内での発言内容に関しては、こちらのブログが非常に上手にまとめてあります。

まず最初の大宅氏の発言。「悪いことを口にしたら本当のことになってしまう、という考え方が日本人にはあるから(今回の原発事故に関して)最悪を想定した対策をしてこなかった。」
それは屁理屈じゃないですか?今回の地震・津波対策が不十分だったのは、もちろん未曾有の出来事でそれこそ想定外であった部分もあるとは思うけど、それにしても大量の放射線を扱う施設にしてはあまりにも危険予測が甘かっただけじゃないですかね。軍事に次ぐくらいの巨大産業・国家戦略を担う事業を行うのに、日本人的なそういう迷信的な考えが少しでも働いたのであれば、もう日本という国はダメでしょう。少なくとも危機管理能力という点では。
それに、原因をそのような日本人の迷信的考え方みたいなところに求めるのって、こないだ「B型の九州男児は・・・」と発言して消えていった人と同じような言い訳に聞こえる。全然理論的じゃない。

それに「原発やめたら、経済がダメになる。原発関連で仕事を得ている地元の人が路頭に迷う」みたいな発言も。
ちょっと待て!原発事故で生活を奪われた何万人もの人や、それこそ被爆して後遺症が出たり死んだりしたりする可能性があることは考えないのか?人の命の方が大事だと思うんだけど。確かめた訳じゃないけれど、ある報道では六ヶ所村では使われることの少ない立派なハコものがいっぱい建っていたり、村民の平均年収は1320万とも・・・。何万人もの人の生活を脅かす原発を作り、一部の人にそれだけの巨額のお金をばらまくのがベターな選択だと言うのだろうか?もっと税金の有効な使い道があるのでは?

それから「脱原発というけれど、そうしたら3割の電力を失う。現代人は今の豊かさのレベルを落とせないでしょう?それに太陽光や風力などでまかなわれるとして、今の3倍・5倍の電気料金を払えないでしょう?今の状態のままで、原発だけ止める、なんてことはできない!」と語気を荒げた。
んっ、誰がすべて今の生活レベルのままでないとだめだと言った?大宅氏の勝手な思いこみでは?
確かに人は一度豊かな生活を手にするとそれを落としたくないモノだ。でも多くの人は今の生活が贅沢すぎて、また今回ばかりは個人個人が妥協せざるを得ないことを知っていると思う。その一例が、節電だ。
電力供給が逼迫している、といいながら、今のところもっている。「もっている」どころかまだ少し余裕があるように見える。昨年の同時期よりも電気の使用量は明らかに減っているようだ。みんなそれなりに意識して動けば、それくらいのことはできる。これなら原発なしでもやっていけるかも、と多少なりとも期待してしまうのはオメデタイ発想かな。リーダーシップのある人がもう少し声高にリードすれば、実現可能な気がする。
それと、大宅氏のいう「原発以外の方法で電力をまかなうと、料金が3倍・5倍になる」と発言した件。その根拠は?確かに、試算では原発の発電コストと太陽光や風力などの発電コストの「単価」はそのくらいの差を示しているかもしれないが、それは発電単価の話であって火力・水力のような比較的安価な発電方法の比率も考慮しないといけないでしょう?脱原発による不足分を火力で補うだけで5倍になったりはしないですよね?それに、原発の発電コストに関する試算にはいろいろと原発推進派にだけ都合のいい疑惑が囁かれているし。

最近、「量子ドット型」と呼ばれる太陽光発電素材が注目されているようですね。効率は理論上75%まで可能とか!
原発がこういう事故を起こしてしまって関連地域にお住まいの人は本当に気の毒ですが、こういうときこそチャンスであると考えて大きな舵取りができる人が出ないもんですかね?単に「脱原発!脱原発!」と叫ぶだけの人じゃなくて、思い切って原発関連予算を削減(もちろん事故処理予算は必要ですが)して、その予算をドカンとその新しい太陽光パネル素材の研究・開発に当てるとか。それくらいしないと本当の意味での技術革新は起こらないのでは。
まあ、こういう最先端技術は単に予算があればそれだけ研究が進むというものでもないのだけれど、もしも予算や設備・人材的な都合が原因で研究の妨げになっているものがあるなら、それこそ国家プロジェクトとして大規模にフォローするのが本当の国家戦略なんではないかと。